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文泉国民学校・第一亀戸小学校と亀戸銭座跡

文泉国民学校をご存知ですか?
現在の第一亀戸小学校の場所にあった、小学校(国民学校)なんですよ。
以前にもブログで書きましたが、私の父は文泉国民学校に通っていました。

Chizu明治44年頃の地図(地図をクリックすると大きく表示されます)にあるように、戦前の第一亀戸小学校は亀戸駅前にあったんですよ。文泉国民学校は昭和17年9月に、児童数の増加のため新設され、現在の第一亀戸小学校の場所に開校しました。

昭和20年3月、東京大空襲があり、両校ともに校舎が消失。浅間小学校の一部を利用して授業が続けられたそうです。

そして昭和22年2月、旧文泉国民学校跡地に第一亀戸小学校の新校舎が落成し、今へ続く第一亀戸小学校となりました。

Ichikameその後も、旧文泉校跡地に建てられた校舎を利用し、戦後廃校となった水神小学校が昭和35年に設置され、水神小学校が現在の場所へ戻った後、昭和36年には新設の第三亀戸中学校がこの場所で開校。

こうして旧文泉校の跡地を利用して、戦後の亀戸の教育環境が復興していきました。

現在は、第一亀戸小学校の南側に「文泉公園」として名前が残っていますが、
なぜ「文泉」なのでしょうか?

これは江戸時代この周辺に、銭座があったことから由来しています。

Bunsen_007寛文3年(1663年)から、この付近で「寛永通宝」銭が造られ、「亀戸銭座」と呼ばれていました。
寛永通宝の裏面は無印のものが多いのですが、造られた場所の文字などが入ることがあり、この時造られた銅銭には「文」の文字が入っており、「背文銭」といわれ、俗に「文銭」(ぶんせん)とも呼ばれていたそうです。

「銭」の字が「泉」になぜ替わったかは、はっきり分かりませんが、亀戸銭座で作っていた「文銭」がそのいわれとなっています。


ちなみに江戸時代に銅銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13年(1636年)からで、幕末までに造られた銅銭は全て寛永通宝と称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されています。
それをモチーフに、平成6年「亀戸銭座跡」の碑が、横十間川沿いの亀戸2丁目団地の近くに立てられました。

数年前に足尾銅山を見学した際に、掘り出された銅の送り先として亀戸が出ていたのを見て、亀戸銭座、父の母校である文泉国民学校、そして私や息子たちの母校「第一亀戸小学校」に思いがつながっていきました。

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コメント

私は亀戸2丁目生まれで亀戸2丁目育ちです。亀戸のことに大変詳しそうなので、もしお分かりになるならば教えてください。
現在、スーパーコモディイイダのある場所に昔シェル石油の石油タンクがありました。いつ頃撤去されたかお分かりになるようなら、是非お願いします。

投稿: 道場清司 | 2014年6月25日 (水) 午後 10時16分

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